すっかり涼しくなりましたねー、って8月になったばかり!
これじゃあ残暑が体にこたえるに違いない・・・
と快適さを素直に喜べないでいる根っからの貧乏性な
Greenvale でございます。
さて、本当は今回から
RODOKU TIPSについて
書きたかったのですが・・・・
もうそんな事よりもこっちを書かないと!
と思い立ってのBoot Camp 話にいたします。あしからず。
朗読Boot Camp でございます。
軽井沢という優雅でハイソなイメージとは裏腹に、
始まったのは1泊2日10時―17時(昼食1時間休憩のみ。)×2
という超ウルトラス―パー集中講座でした。
「しゃべり」「よみ」を職業にする輩が9名プロデューサー・演出家先生の元集結し
コテンパンに!されました。
参加者職業は:女優さん、声優(ナレーター)さん、アナウンサー、舞台俳優、劇団員、学校の先生(演劇部顧問)、古典芸能専門家、とGreenvale・・・
課題はそれぞれが自分で5分で読めるものを持ってくる(当然練習してくる)。
バラエティーに富んだメンツがそれぞれ持ってきた課題がこれまたすごい。
・にごりえ(樋口一葉)
・やまなし(宮沢賢治)
・砂漠の街のX探偵(別役実)
・ナゲキバト(外国のシナリオ)
・元禄忠臣蔵 (真山青果)
・葉っぱのフレディ(レオ・バスカーリア)
・人情噺文七元結(三遊亭円朝口演 榎戸賢治作)
・戦没者の遺書いろいろ (本物!!)
・耳なし芳一(小泉八雲)
この時点ですでに相当すごくないですか?
私は耳なし芳一をバイリンガルで、と言われたので
冒頭部分を(それなりに)用意しました・・・。
会場は、小学校の教室位の大きさの朗読専用ホール。
ここに作られた小さなステージ上でそれぞれが課題を発表、
演出家先生が論評、というか先ほども言いました通り
コテンパンにする、というのが形式です。
ステージ斜め向かいにいかにも演出家という感じで聞いていて
その他の生徒!はみな机に向かっていかにも生徒然とした感じで聞いています。
何がすごいって先生の
知識量ですね。
一応事前に課題は先生に送っておくことになっていましたが、
全て
演出家の先生の方が読むのが上手い!女優さんやベテランアナよりも上手いのです!
それは先生が作品の歴史的背景、文学史、当時の日本の状況、
作品内に登場する人物の職業の歴史、日本語の文体の変化に至るまで全て(本当ですよ)調査済み、勉強済みなので読み方全てが見事完璧に「理にかなって」いるのです。
のべ10時間のキャンプ内容を全て書くわけにもいかないので
今回は私の課題「耳なし芳一」について頂いた指導・アドバイスを中心に(それだけでも相当長いけど)お届けします。
参加者全員へのテーマを発表:
「探し物はなんですか?」つまり、お話のテーマは何か?自分の朗読のテーマは何か?
それをまずはっきりさせておけということ。
漠然とぼんやりと参加してるわけじゃないだろーな?
という意味でもあります(多分)
そして
「忘れ物はなんですか?」きちんと調べてきてますか?
朗読に大切なのは「解析」(「解釈」は解析ができていないと不可能)
自分の声にあった作品ですか?
つまりバックグラウンドの説明がいかにつけられるか?
論破されないだけどの知識の裏付けがあるか?
作品の文学的位置、ポジションを理解しているのか?
わからない事は解決してるか?
さ、その二点だけで私は既にいやーな汗をかきはじめました。
だって探し物も忘れ物もぜーんぜーんできてないんですから!!
というわけで私の最初の発表後の先生のお言葉・・・
「何を言ってるのかさっぱりわからない」
「わからない英語で聞く方がまだまし」
「そもそも外国の人に何を伝えたいのか」
「大体怪談なのにちっともこわくない」
「これ以上言うと泣かれるからやめとく」・・・というもうこれ以上言うことがないという位、というかむしろ、
そもそもお話にならないけど
何か言わなくちゃいけない、
という
ある意味気を遣わせる位の
最低レベルの批評でした。
ベテランには相当辛辣だったけど中身のある、意味のある建設的な批評でしたからね。
最後に初めての参加者を相当気の毒に思ったのか、
ぼそっと
「いい声はしてるけどね・・・」
セールスマンが訪問販売する際、売りつける側の奥さんをほめるのが
基本だそうなんですが、ほめる箇所が見つからない時の最終手段が
「しかたないから玄関をほめる」
というテクニックを使うそうなんです。
その時の私はまさにその感じ・・・。
ご想像の通り、私の顔はこわばり、うなだれ、抜け殻同然。
席に戻った私の方に振り返り、「大丈夫よ・・・」
という憐れみの目をして先輩アナウンサーがうなづいた時には
「もういやだ!」唇を噛んでしまったほどでした。
・・・そんな劣等生をよそに先生は次々と指摘していきます。
「耳なし芳一」はご存じ平家物語を受けて作られた怪談。
源氏に負けた平家の一族がどんな悲惨な状況下で
一人一人が次々と壇ノ浦に飛び込んでいったか、
それを知らないとはじまらない。
それまでの日本の歴史の中でも戦に負けた側一族が一斉に集団で
割腹自殺をしたり、この話のように入水したか
おもりを袂に入れて、また先に討たれた死体を抱いて飛び込んだり・・・
本当に悲惨な死を遂げたか、
それらの人たちがどんなに無念な思いで死んでいったか・・・
その背景を知らずして「耳なし芳一」が読めるか?
何故、平家の幽霊が700年もの長きにわたって
怨念をもって人々を祟ったのか、
それを鎮めるために芳一がどんな風に琵琶を演奏したのか、
その演奏を聴いた幽霊たちがなぜあそこまで激しく泣いたのか・・・
それがわからない状態で
「耳なし芳一」を伝えられると思っているのか?
ごもっとも!!実は、先生は以前「耳なし芳一」の朗読舞台の演出・監督を
されたこともあり小泉八雲に関しては
表も裏もまるっとぐるっと完璧に研究済みです。
琵琶法師という職業―つまり盲目の琵琶弾きが
どんな風に弾いて「謡った」か聞かなくては、知らなくてはいけない。
実は彼ら、「演奏しながら謡った」のではない!!
英語の元の単語でreciteと言っているように、
ほとんど節のない語りのような「謡」を行ってから、
続いて琵琶の演奏(のみ)が始まる。
その琵琶の演奏もミュージカルな感じというよりは
もっともっと具体的な「音」が中心である、という歴史的FACT。
芳一が住まわせてもらっていた「阿弥陀時」という寺は
地形上どんなところに立てられたか知らなくてはいけない。
読みこんでみると「当然わかってくるはずだが」(先生談)
阿弥陀時が建っているところは参門をくぐって振り返った際、
海、つまり壇ノ浦が見えるような土地であることが(当然)わかる。
=波が聞こえるところである。
多くはその検証をしないので、朗読をを聞いていると
阿弥陀時があたかも「山寺」かの印象を持たせるような「読み」をする人が圧倒的に多い。
実際、先生は「ふりかえったら海が見えるという寺」がないかどうか調べたそうです。日本中。
(そして見つけたそうです!)
また、阿弥陀時の裏庭は苔庭なのか山水なのか?
-どうやって武者がやってきたかが芳一にわかるか?
―おそらく砂利敷きの裏庭だったに違いない。
そうでないと盲目の芳一には人が近づいたのがわからないから。
こうして先生はひとつひとつ文章に沿って「検証」と「解析」をしていきます。
聞いている側が納得するような読みにするには
読んでいる側が「正確」でなくてはならないからなんです。
そしてまた、こうもおっしゃいました。
この作品の一番の特徴は何か?
ビジュアルな描写が非常に少ない、
音に頼った描写が際立っている・・・それは芳一が盲目だから・・・だけでなく
作者であるラフカディオハーン自身の目が非常に悪かったから!!日本語がとても上手な人だったらしいが、怪談はもともと日本人の妻が語るのを
「聞いて」書いたから!!
という、作者の人となり、作品の生まれた背景もきちんと調べておかなくてはいけない。
翻訳(この場合英語⇒日本語)の間違いにも追求していきます。
原作(つまり英語)では芳一は
「verandah」で
涼んで住職の帰りを待っていた・・・。
でも日本語訳になると
「廊下、もしくは縁側」になっている。
翻訳がばか!(江戸っ子ですからね、先生は・・・)なんだそうです。
これは読んでいけば「当然」気づく事であるが、VERANDAHと呼ばれている場所を正確に訳すと
ここは「向月台」であることがわかる。
つまり、廊下や縁側のようにアウトドアなところではあるが
細い長い場所なのではなく、奥行きがたっぷりある場所。
前にでっぱっているからこそ、風通しがよい。
芳一は「涼むため」に外に出たのだからこれが理屈ではないか?
翻訳家は一体何をやってるのか?というお小言も入ります。
つまり、奥行きがあってそれなりに広くないと、
最後のシーンで武者が(体中にお経を書かれたため見えない)
「芳一はどこにいる~?!」と言って歩きまわったり、
琵琶が転がってるのをみつけて近くにいるに違いない・・・
と思えないでないか?
という計算された説明をされました。
日本語そのものにも注意を払われます。
「断層」
「男装」
「弾奏」正確に発音できる人は本当に少ない、とおっしゃいました。
アクセント辞典ではほとんど同じ扱いなんです。
が、しかし本当の日本語はさにあらず!!
「弾奏」は弾が強くて奏でるは弱い。
「男装」は男も装も弱い
「断層」は両方とも強い。
アクセントではなく強弱。
自分でやろうとしてもよくわからなくなるんですが、
先生を聞くと一発で納得。
朗読の勉強が「耳で学ぶ」「口移し」でなくてはいけない・・・というのは
こういうことを言うんですね。
「ぎゃふん」、「がーん」という音がリアルに聞こえましたよ。いやまじで。
完全にひっくり返りました。
もうこれだけファクトに基づいた正確で明確、
論理的な分析をされると自分が
丸裸の赤ん坊になったような、
今まで自分が勝手に我流で読んでいたものが
いかに
薄っぺらく「嘘」だったか・・・
よーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーくわかるのです。
先生が「俺ならこう読むね」というのを聞いていると
昔々の海のそばのお寺で
心細く住職を待ちながら弾奏する芳一の姿が、
そして白い砂利を踏んでくる武者の足音が聞こえてくるのです。
怖い。ほんとうに怖い。
感動というか興奮というかもっと言うとエクスタシーに近い感情でした。
「ほうぅ」っというため息もホールに聞こえてきます。
「演出家はしゃべるのが商売だから
説得力のある話し方ができるのは当然なんだ」
と先生はおっしゃいました。
ただし、役者に自分の思うように動いてもらわなくては
ならないわけですから、
その話は「正しく」なくては説得できない。
それだけの知識、情報は
全部頭に入ってないとできるわけないじゃないか・・・。
ですって!!
ご本人いわく
「二行だけだったら演出家は何を読ませても役者より上手い」
んだそうです。
作詞家とか作曲家の先生が歌手に教える際、
大変素晴らしく歌われるのと
同じような感じなのかな???と思いました。
御年76歳。一度も(トイレ休憩にも立たず)9人の批評と論評を次から次へとされていきました。
そして合間には小泉八雲自身の歴史、彼の随筆の素晴らしさ
(「怪談」なんて読んでないで随筆の方が数段素晴らしいよ・・・
大体小泉八雲の作品読むときは全作品読んでからスタートしないと・・・)
とか、
小泉八雲東京大学英文科の教授だったんだが、
英国留学から帰国した夏目漱石に
適当な職場をあてがわないといけないということで
小泉八雲を東大から追いだして漱石を英文学の教授にさせた・・・
といういきさつ
ー夏目漱石は「文学のエステティック」というテーマを持っていて
それを数式のようにして表わす
(とかなんとか)不思議な学術論を引き下げて帰国したが、
学生にはまったく受けず
(そりゃそうだよな、当然お化けの話の小泉教授の方が面白いもんな!)
悩んだ漱石はノイローゼになり、先生業を辞めて小説家になった・・・
小泉八雲が面白い先生じゃなかったら
小説家夏目漱石は生まれなかったんだよな
がははは!という文学史小話?とまでもお面白おかしくお話になるわけです。
(私がきちんとメモとれてない可能性大なのでディテールは要確認ですが)
そのころには
コテンパンにされえてしおれてたのを忘れて笑ったり感心したりと
楽しくて楽しく一言も逃さず聞こうと前のめりで聞いていました。
休憩なしのノンストップ講義なので、
もうちょっと、もうちょっとと
トイレに行くのも惜しく我慢していたため、、二日後の私は見事
膀胱炎になっていました。
変なおち?ですが
それだけ
人に席を立たせないお見事で感動的な時間でした。
尻切れトンボで恐縮ですが、とりあえずはここで一端終了。
思い出すだけで胃が痛くなったり、
興奮したりするもんでへとへとです・・・。
だって、これでまだ自分のパートの多分60%も伝えきれてないですが、実際はこれが×2日×9人ですよ・・・
どんだけ濃いのか、想像つきますか??
でも
快感・・・また参加したい、話が聞きたい。
中毒になるワークショップでした。
なんとか
Greenvaleなりの
耳なし芳一、いつか必ず読みますから、
先生、お元気でいてくださいね!
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